きらめきに落ちて。

生きるならドラマティックに、私のしあわせを演出したい。

準備

自殺を考えています。今度こそ死ねるかな?私の生きた跡なんて残さずに消えるように死にたいと前は思っていました。でも今は私が生きた跡を残そうと思って、文章をまとめています。でも最期が自殺だなんてとんだ自伝だよね。

 

元気になった、表情が明るくなった、こんな日が来ると思わなかった、なんて言われるぐらいに病んでいない毎日を過ごしています。母との関係が改善され、大好きな母と一緒に過ごすこともできて、病気の症状もほとんど出ていません。

鬱々としている訳でもない、誰かに復讐したい訳でもない、それなのに死にたいのです。苦しみや辛さもありません。ただ言えることは、自分が生きていく未来が想像できないということです。

毎日掃除や洗濯、買い物や料理をして1日を過ごせばそれなりに充実した日々が送れます。私は今それが出来ています。これからもそうやって生きていけばいいんだよ、生きているだけでいいんだよ、そう言ってくれる人がいますが私がそれを許せないのです。

 

私は高校生の時に精神疾患になりました。その時から一般の人とはかけ離れた生活を送っています。精神科病院に何度も入院し退院することはできても、すぐにまた入院するような暮らしをしていました。自傷行為や摂食行動の異常(過食嘔吐など)があって生活自体に疲れきってしまうのです。それらは依存と言われる「やめたくてもやめられないもの」なのです。そして「意思や根性でやめることはできません。」。その行為がやめられるのは、行為の必要がなくなった時です。どういう意味があってそれをしているのか、いつか分かる時が来ると思います。私の場合は症状を出し続ける事で、病気という立ち位置を獲得し、生きる意味を感じていた、というものが大きいと思います。自分が分からない私は、病人になってアイデンティティを確立していたのです。

だから何が言いたいのかというと、私は然るべき時期に一般的な経験ではなく、精神疾患を持つ人の経験をしてきたため、今すぐに一般の人と同じように働くことや交流を持つことが難しいということです。

新しい事を始める時不安や恐怖を感じるのは当然だと思います。期待だけで物事を始められる人はいません。その時に勇気が必要になるのだと思います。

その勇気が私にはないのかな。それは生きていく勇気と言い替えてもいいものかもしれません。今まで生きてきたけど、いつだって私たちは選択をして行動し、人生という道を切り開いてきたのです。そこには大きさこそ違うものも勇気をもって選択をしたはずなのです。

 

私は死ぬという選択をしました。既遂できるのかどうかはわかりません。道具は準備しました。部屋の片付けも進めています。部屋をきれいに片付けたら決行の日を決めたいと思います。

 

また、書きます。

おわり

 

にほんブログ村 メンタルヘルスブログへ
にほんブログ村